大島内港 IN



造礁珊瑚
現在釣りポイント多数有り

牟 岐 大 島 姫 神



 


 
沖の大島 姫神様は 通う船路の 守り神 (雨情)


湾口浅海イシサンゴ

I.N


緑イシサンゴ
バイオテクノロジーについて
大島無人島に「ふうらん」再生にバイオ技術をもって環境の育成に取り組む地元のグループが出てきました。 自生地(出羽島)での「タニワタリ」が無くなったのと同じ理由かもしれませんが有人の島での「タニワタリ」もお願いしたいものです。阿南商工会議所から抜粋  バイオテクノロジーで農業ビジネス
      (有)新居バイオ花き研究所(社長は、由岐町出身;{元病院薬剤師}
牟岐大島の歴史
 遠見番所について、徳島県立博物館が年代を考古資料から推定していますが、場所が未だ確定していないと調査より断定できていません。(下記参照)徳島県立博物館文書による年表
1644年 大島で切支丹宗門改めのための御番
1805年 遠見御用仰付けられ御半形人と相勤める。 
1806年 御番を免ぜられ御半形人が勤める。
1825年 御番を中止 
1829年 異国船牟岐浦漂着
大島無人島1846年出羽島等から島番として3軒移住遠見番所と狼煙場を設ける。(海部郡史) (竹が島・鞆浦・大島・伊島等)明治21年20戸古牟岐へ一同移住。昭和20年ごろ海軍監視所設置。(敵機や潜水艇の発見通報)海軍兵士150名駐屯。終戦後、撤去。
牟岐町は都市計画区域内に指定されているが、ここは指定外
 帝国海軍の残した貯水池やレンガ積み監視所跡は残っていますが、遠見番所は古老(S40年当時86歳宮内清太郎氏)から聞き取りした場所(番所)が正解だと推測しています。昭和50年代に石切場が閉鎖になり、代わりに某特殊法人の道場を建てる為に旧島屋敷を測量した記憶から最先端の南側に急に開けて太平洋が見渡せる敷地がありました。建築確認を日和佐合同庁舎(現在美波)にプレハブ設置で提出しました。電機のみは、専門技師(四国電工)が同行され設計図面を作成しました。残念ながらその当時の建築確認図面は手元に残っていませんがライフラインとして、水・電機は揃える事ができました。{石切場での事業の為に、昭和50年代迄石職人の方々が生活されていました。}
レンガ積み監視所 小学生達が駆り出され、一人に付きレンガ2個を持って登坂したとの事です。
帝国海軍と書かれた電気部品と共にケーブル線 昭和60年代に撤去されたとの事でした。(追記)
四国の地質構造と活断層 

四国の四万十帯から・・・
四国東部では安芸構造線の北側に千枚岩優勢でメランジュを伴う白亜系牟岐層が分布し、南側には砂岩・砂岩泥岩互層、メランジュからなる古第三系室戸半島層群が分布する。
四国東部での安芸構造線は、九州の延岡衝上断層に相当するとされており、牟岐層が槙峰層群に、室戸半島層群が日向層群に相当する。牟岐層の北側には、メランジュや砂岩、玄武岩質火山岩類を伴う日和佐層が分布し、これは諸塚層群に相当する。

*メランジュ 露頭ブロックになり連続性が無い。
徳大総合科学部村田明宏教授  四国東部のみ抜き書き

地質(低質)  砂岩頁岩互層 (四万十層)
珊瑚礁 ホセ・マリヤ・デ・エリディヤ 上田 敏訳(海潮音)
 波の底にも照る日影神寂びにたる曙の
 照しの光、亜比西尼亜(アビシニア)、珊瑚の森にほの紅く、
 ぬれにぞぬれし深海の谷隈の奥に透き入れば、
 輝きにほふ蟲のから、命にみつる珠の華。

 沃度に、鹽に、さ丹づらふ海の賓のもろもろは
 濡髪長き海藻や、珊瑚、海胆、苔までも、
 臙脂紫あかあかと、華奢のきわみの繪模様に、
 薄色ねびしみどり石、蝕む底ぞ被いたる。


鱗の光のきらめきに白はふらうを雲らせて、
枝より枝を横ざまに、何を尋ねる一大魚、
光透入る水かげにもの憂げなりや、もとほりぬ。

忽ち紅火翻へる思いの色の鰭ふるひ、
藍を耐えし静寂の、かげほのぐらき青海波、
水揺りうごく抄曵は、黄金、真珠、青玉の色。


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